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興宗寺 (福井市) : ミニ英和和英辞書
興宗寺 (福井市)[こうしゅうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう]
 【名詞】 1. interest 2. entertainment 3. pleasure 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [ふく]
 【名詞】 1. good fortune 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [し]
  1. (n-suf) city 

興宗寺 (福井市) : ウィキペディア日本語版
興宗寺 (福井市)[こうしゅうじ]

興宗寺(こうしゅうじ)は福井県福井市松本にある浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は「牛鼻山」(ぎゅうびざん)。
== 沿革 ==

=== 興宗寺のはじまり  覚如上人準由緒寺===
興宗寺の開基は行如である。
「三河念仏相承日記」によると高田系顕智の教えを受けた円善(三河和田)の弟子であった。同じ円善の弟子としては如道(越前大町、大町道場、後の大町専修寺)・信性(越前和田、和田道場、後の和田本覚寺)・専精(越前大野、専光寺)などがあり、念仏をすすめていた。行如は「三河念仏相承日記」に「越前長畝郷田島」とあり、今の坂井市坂井町田島あたりに拠点を置き、伝道に従事したという。如道が大町道場を開いたのは1290年であり、行如もその頃に道場を開いたと考えられる。
行如は高田門徒の支流に属するが、本願寺覚如とも接触があった。覚如が大町道場をたずね(1311年、応長元年)、ここに二十日余りも滞在した。その折に行如・如道・信性は覚如から教えを受け、さらに覚如から「教行信証」を伝授され、宗祖の鏡御影(かがみのごえい)も開帳するなど勧化に務めたこともあり、行如等は本願寺系となった。(その後、如道は秘事法門を唱えて本願寺系から離れて行き、真宗三門徒派へと流れていく。)
行如は覚如の法脈を受け、本願寺と良好な関係を保ち続けた。本願寺に残る文書「慕帰絵第十巻」には「凡又、聞法血脈の名字を釣輩は、有昭・善教・覚浄・教円・乗智・成信・行如・承入・唯縁・道慶・寂定等なり。」とあり、覚如の「聞法血脈」に含まれる重要な人物の一人として行如が挙げられている。
興宗寺の寺号が初めて文献に見えるのは、「反古裏書」の藤島超勝寺創立由緒を語る部分である。「彼円善の弟子、越前国大町ノ如道ト云者アリ。田嶋ノ興宗寺行如、和田信性アヒトモニ、覚如上人御在国ノ中、御勧化ヲウケラレシ法徒也。」との記述があり、覚如から教えを受ける1311年(応長元年)以前かその直後あたりから興宗寺の寺号を称していたらしい。覚如が親鸞の廟堂に「本願寺」の号を付したのが1312年(正和元年)から1321年(元亨元年)の間のこと。また了源が建てた寺に覚如が興正寺(のち仏光寺と改める)と名付けたのが1323年(元亨3年)である。そのことから言えば本願寺系としてはかなり早い段階での寺号呼称であり、覚如から寺号を賜ったという言い伝えにも頷けるものがある。
道場を開いた頃から数えると720余年の歴史があり、またかなり早い段階での寺号呼称から考えても、本願寺系の寺院としてはかなりの古刹である。
興宗寺は「タジマ」の地にあった為、但馬(田島・田嶋)興宗寺と呼ばれていた。
その後、行円・行祐・円祐・円慶と次第され、現在は第二十三世釋琢生が住職をしている。「元治由緒書」や「文政由緒書」によれば、行如は北条時政の孫(北条時房の子)である北条時村(北条相模次郎時村)であったという。そのためか興宗寺の住職は北條姓を名乗っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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